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【2】ある晴れた朝、突然に

[1]

そのジェット戦闘機は水煙を上げ、東シナ海洋上をスケート靴のように滑ってきた。

長崎空港へ向かって着陸態勢に入ったANA1024便の窓辺から、たまたま目撃した乗客には、海の上を移動する巨きな噴水のように見えた。

それが残した航跡を横切った漁船の乗組員は、ジェットホイルの新型フェリーが通ったと思った。

それはベタ凪の海面を水切りの石のように滑っていったのだが、しかし石にしては大きく早すぎた。長さは二十メートル、翼長は十五メートル、そして速度は秒間二百メートルを超えていた。


そのコックピットに座っていた青年は、ちょっとしたモーゼの気分だったろう。

左右には逆巻く海水の壁がそそり立ち、キャノピーは絶えず潮を被り、視野は白く濁ったまま。高度計はすでにゼロを振り切っている。電波高度計はあるが、最後の頼みは体に染みついた感覚だけ、それも六番目の感覚だ。

海を真っ二つに割って、その底を亜音速で飛んでいるようなものだった。

イスラエル人のエジプト脱出というより、いつまでも終りのないチューブの中を走るサーファーだ。だが波の音は聞こえない。聞こえるのはジェットエンジンと風がデュエットする高周波だけ。ラジオはずっと沈黙している。

つい先刻までは、彼を懸命に探している僚機の交信音が煩く聞こえていた。

「墜ちたのか?」と、オレンジリーダーは言った。

「墜ちたって!俺が墜ちるものか」

「発見しろ。連れ戻せ」航空隊司令は言った。

「連れ戻してどうするのですか司令殿」誰にも聞こえないのを承知で、彼は尋ねた。

「党紀に従って処罰しなさい」と、自分で答えた。

「彼は党員ではないと思います」

「だったらオルグしてから処罰しなさい」

本当はこう言ったのだ。

「墜ちたんだ。墜ちたんだ。いいかね。事故で墜ちたんだ。責任者を呼んでこい。党紀委員会に引き出すんだ」

狂ったような司令の声も、もう聞こえない。三十分以上前からラジオは沈黙していた。

彼が操る中国海軍の実験機は、空母を発艦してすぐ、まんまと姿をくらませたのだ。ただ連中の視界から消えたのではない、ロシア製の高性能レーダーから、そして他のあらゆる電子監視装置の編み目から、見事に消えてしまったのだ。

ともに飛んでいたモニター機も、直後に緊急発艦した空母艦載機も、ただ闇雲に周辺を飛び回るだけだった。

そのころすでに、彼は艦隊が展開する海域から百五十キロも離れた洋上にいた。そこからひたすら、海面スレスレを真っ直ぐ日が昇る方角へ飛び続けた。

朝からずっと、在日米軍のC135が演習海域周辺の上空を飛んでいた。

アメリカの電子警戒機のダンボみたいな耳を気にして、連中は、この実験機のことを「虎の尾」と暗号で呼んでいた。それは、もともと半端物のこと。つまり連絡用の艦載形小型レシプロ機の愛称だった。

艦隊は、行方不明ではなく、連絡機が事故に遭ったと装って、探し続けた。

冗談じゃない!

虎は虎でも、これは虎の王、見えない王虎、「虎影」だ!

彼は手の中のスイッチを押した、沈黙の中で電波が二度、舌打ちした。

もう一度押した。何かが雑音を割って聞こえた。

かすかに、それはリズムを刻んでいた。

無線がUHFのテレビ音声を拾ったのだ。

「・・お送りしま・・・今日の一曲は、ビーチボーイズ。長崎県雲仙町の山田弘さんの・・・・ですね。この曲は。私も・・・」

日本語だ。ついに来たのだ。すぐ近くに日本の放送局のアンテナがある。日本の町がある。九州の陸地が。

彼は操縦桿を引いた。

実験機は突然、高度を上げた。青空が亜音速で膨れ上がる。日差しが大きくパイロットを包む。

機影は空の青に溶けた。一八〇度ロールすると、眼下の水平線に大地が見えた。突き出た半島に裂傷のカサブタのような火山が見えた。雲仙岳だ。

テレビ音声は音楽に変わっていた。シャカシャカいうドラム。

賑やかで愉しげなマイク・ラヴの歌声。「If everybody had an ocean〜」

彼は声を合わせて歌いだした。「inside outside USA、inside outside USA」

満面の笑い顔で、若いパイロットは操縦桿を引いた。

「everybody――love surfing−−surfingUSA」

やったぞ! ここは、日本だ。


[2]

二〇〇×年六月四日午前九時十一分。

福岡市の南、背振山の頂きにある西部航空警戒管制団第四十三警戒群のレーダーサイトでは、警戒管制官が四〇人、二十四時間体制で、丸いディスプレイをじっと覗き込んでいた。

照明を落とした室内室内、彼らの顔をカラーディスプレイのバックライトがぼんやり瞬かせる。

無数の正三角形を接ぎ合わせてこしらえた球体のレドームの中では、三次元レーダーのアンテナが高速で回っている。

一回りするたび、防空監視所のディスプレイでは画面が更新される。

突然、声二もならない声が、薄暗い室内を満たした。

寸前まで、兆しも気配も一切なかった光点(ブリック)が、いきなり出現したのである。それも日本国土の上空、雲仙岳の真上あたりに。

白く明滅するブリックはすぐ、オレンジに変わった。システムが瞬時に敵味方を識別したのだ。

「国籍不明気(アンノウン)!」

どよめきが部屋全体に広がった。

中国の経済成長に比例するかのように、西部航空方面隊のスクランブルは、ここ数年、急増していた。しかし、これはただの「アンノウン」ではない。

レーダーの電波が届くのは前方二百海里、約三百七十キロメートル、ここ一カ所ならまだしも、北は対馬から南は宮古島まで、都合九つのレーダーサイトが日本の空の西の防壁となっている。それを突破された、いや、まったく感知しなかった。

ブリックが出現したのは雲仙岳、それは、フォワードもバックスも誰一人気づかぬまま、突然ゴールキーパーの眼前にボールを持った敵が湧いて出たようなものだった。

オレンジ色のブリックは矢となって有明海を北上している。その位置、南南西四十海里、ここから八十キロと離れていない。亜音速で飛来する物体にとって、八十キロなどほんの一瞬に過ぎない。

福岡が、そのゴールなのか。


背振山からわずか十五キロ、福岡市のすぐ南の住宅地にある西部航空方面隊防空指令所(DC)では、丘墓のような土盛りに埋設されたコンクリートの部屋の中で、先任司令官は叫んでいた。

ここには全国二十八カ所の防空監視所からレーダー情報が光ファイバーで送られてくる。自衛隊の自動警戒管制システム、いわゆるバッジシステムの西部方面における心臓部だ。

いくつものビジュアルディスプレイが、やはり薄暗い室内に立ち並び、あらゆる防空情報がそこにリアルタイムで視覚化されている。

ヘッドセットをして青いウィンドブレイカーを着た四十人の要撃管制官は、みな一様にそれに身を乗り出し、一段高いところに座る先任司令官の決定を待った。

オレンジ色のブリックは、福岡に近づきつつあった。しかも、見ようによっては、この司令所を目指している様にも見えた。

もはや疑いや詮索は無用。

「スクランブル!」と、先任司令官はホットラインに叫び、赤いボタンを押した。

目標は沈黙している。敵味方識別装置による電子的な呼びかけにも応答はない。バッジのコンピュータは、交通省航空交通管制部から随時送られてくるフライトプランを含め、今現在日本上空を行き交うすべての航空機を知悉している。そこに該当機がなければ、これは識別不明機、アンノウンだ。

こんな場所に、突如出現したのである。「敵機」とまでは言わないが、害意ある飛行物体(ホスタイル)と認識してもかまうまい。

だが、ひとつだけ可能性が残っていた。

横田に司令部を置くアメリカ第五空軍だったら、−−彼らは作戦行動にかかわるフライトプランを、日本には決して事前に知らせない。これは日米地位協定に抵触しているが、長い間、当然のこととなっていた。

むろん、尋ねても回答を待つ時間などない。答えないことだってある。

しかし、それにしても−−

先任司令官は、識別用に航跡番号「401」を与えられたオレンジ色のブリックが、この春日へ近づきつつあるのを睨みながら、思案した。

いったい、これは何だ。なぜ、今の今まで、まったく見えなかったのか?

見えなかった−−

まさか、アメリカが我々に知らさず、日本の空でF117ナイトホーク、ステルス戦闘機でも運用を始めたんじゃないだろうな。

彼はそう考え、同時にデスクを拳で叩いて、不快な空想を頭から追い払った。


DCからのホットラインが鳴り響き、室内を二つに切り裂いたとき、周防灘に滑走路を突き出した西部航空方面築城基地のアラートパッドでは、四人の戦闘機乗りが、それぞれ気ままな格好で待機時間を過ごしていた。

すでに朝飯を終え、うつらうつらと目をつぶる者、毒にも薬にもならない雑誌をただ漫然と捲る者。しかし皆、草色のパイロットスーツにオリーヴ色のGスーツを着て、全員が完全装備だった。

二人は五分待機チーム、スクランブルの指令が下れば、五分以内に空へ駆け上がる。

残る二人は一時間待機チーム、五分待機チームが飛び立った後、五分待機に入れ代わる。

ホットラインの受話器を取るとほぼ同時に、ディスパッチャーが「アラート!」と叫びながら、もう一方の手で緊急発進を告げる警報機のスイッチを押した。

ジャッアーン!

人を突き動かすようなけたたましい音が格納庫を揺るがした。カマボコ天井の片隅で回転灯が明滅し、血の色でそこを瞬かせた。

そのときはもう、二人のパイロットはパニックドアを体で蹴り開け、アラートハンガーに飛び出し、愛機に走り寄っていた。

彼らが放り出したコーヒーカップや雑誌、ゲーム機などが、床に転げたときには、ラダーに足がかかっていた。

体を締め上げるGスーツなど、ものともせず、彼らはF15Jのコクピットに飛び乗り、始動エンジンを回し、パラシュートのハーネスに手を通す。キャノピーが降りてくる。彼らはヘルメットを被りグラブをして、シートベルトで体を固定する。

ともにアラートハンガーへ飛び出てきた整備員たちが、インターフォンに呼びかける。

「外部点検異常なし」

スタートレバーを引き、コントロールタワーを呼ぶ。火の入ったエンジンの轟音の中、スクランブルオーダーを聞き取り、格納庫を出ていく。

この間、二百秒足らず。

次の三十秒、二機はジェットの排熱であたりの景色を揺らしながら轟音を残し、エプロンからアプローチエリアへ走る。

「ウォッチラビット−−−」と、タワーが呼びかける。

「クリアード・テイクオフ」

二機のF15Jは折り重なるようにして周防灘上空へと駆け上がった。鋭い槍が空を突くように。

そこでアンノウン「401」の情報を聞いた。DCからは刻一刻、目標の座標、高度、速度を伝えてくる。今、脊振山の警戒管制官と同じものを、パイロットは見ている。機内のディスプレイを通して、リアルタイムでバッジシステムと情報を共有している。

システムが、彼らに最も早く目標「401」に到達する飛行ルートを指示する。

福岡市内の上空まで到達しているのだ。

いつものスクランブルとは、まったく違う。目標にミサイルを撃つ可能性は、限りなく高い。

彼らは、そのとき初めて本能に支配される。

「この獲物は、俺のものだ」と。

そして十七秒後、彼らも、DCも、そしていくつもの脊振山の防空監視所も同時に知ることになった、目標「401」は、福岡空港表面を飛行中、消失したと。

論理的に考えるなら、理由はひとつ。

空港に着陸したのだ。


[3]

空気がいきなり破裂した。

音もなく、目に見えない何ものかが、わっと膨れ上がり、崎森(さきもり)二等空佐をぶちのめしたのだ。体が宙に浮き上がり、尻から落ちた。

どこか遠くで、パパパッとガラスが弾けた。すべての音は、その後、いっぺんにからやって来た。

崎森二佐はそのとき、航空自衛隊板付地区のエプロンに立って、築城基地へ向かうT4支援機の準備を待ちながら、携帯電話と話していた。目の前には滑走路、福岡空港国内線ターミナルはその対岸、はるか北の外れにある。

こちら側には消防、警察、海上保安庁、そして在日米軍の格納庫が立ち並び、さらにその先は国際線ターミナルのエプロンだ。

そこへ、ドカンッときた。

彼は瞬時に跳ね起きて、誘導路へ走った。

自衛隊の板付ターミナルは、他の上屋から少し引っ込んでいる。消防格納庫の前まで出ると、とんでもないものが目に飛び込んできた。

国際線のゲートと旅客機を結ぶ蛇腹のブリッジが二機、脚を折り、がくんと捩れて垂れ下がっている。その下に横たわっている人影は、ブリッジを動かしていたスタッフだろう。

エプロンでは、スポットに着けた旅客機が傷ついた鳥のように翼をゆらゆら揺らし、横転したカーゴトラックから転げ落ちた荷物があたりに散らばり、口を開けたトランクが吐きだしたパンツやブラジャーが、茫然自失としているランプ作業員の上をひらひらと舞ってる。

鼻がツンときた。耳が聞こえないことに、やっと気づいた。その奥に今も、甲高いジェトノイズが残響していて、崎森二佐はさっと血の気が引くのを覚えた。

爆撃か? そう思った。

しかし火は見えない。黒煙もない。続く爆発も起こらない。

滑走路の北端が歪んで見える。向こう側の建屋は全体、アフターバーナーの排熱がこしらえた陽炎に揺らいでいる。

そこから彼方の空へ、飛行機雲が天国へ向かう階段のように続いていた。急角度で上昇した飛行物体の軌跡だ。

そんなものは見なかった。だが、何かが一瞬、目の前を横切った記憶はある。いや、まさか、−−。自分を疑ったが、それ以外、考えようもなかった。

今しがたの「空気爆発」は、ジェット戦闘機のソニックブームだ。それ以外考えられない。

低空爆撃(スキップボム)の要領だ。しかし、速度が速すぎる。

アフターバーナーをかけ、時速七百ノット以上、音速で低空侵入し、いきなりエアブレーキを開いて急上昇する。そのとき発生した衝撃波が、物理的なエネルギーになって地上を襲う。音は後からやって来る。

だとしたら、いったい何者が?

崎森自身、数年前までは航空自衛隊のジェットパイロットだった。やって出来ないことではない。

ほんの一瞬、彼は自衛隊機を疑った。だが、技量を誇る者はこんなことをしない。まして、鷲と桜のウィングマークをつけた者が、するわけもない。

しかし、自衛隊機でないなら、−−それは米軍以外にありえないではないか。

救急車と消防車のサイレンが、場周道路を突っ走ってきた。空港の消防は滑走路を挟んだ真向かいにある。緊急時、滑走路を横切ってくるはずが、どうしてと思ったが、理由はすぐに分かった。

北の空に、侵入してくる機影が見えた。

パニックに陥ったコントロールタワーが、着陸回避を指示するタイミングを逸したのだろう。

機影がボーイング747だと分かったとき、その真下に黒い点が現れた。

点は、すぐ鳥に変わり、鳥が戦闘機のシルエットに変わった。

ジャンボの翼下を潜り、それはいきなり前に出た。ニアミスなどというものではない。すでにギアを下ろし、フラップを伸ばし、最終降下体勢にあった旅客機を、真下から追い抜いて、鼻先を奪ったのだ。一部のミスも許されない、完璧な操縦で。

ジャンボは日本空路、JAR(ジャール)の国内線だった。気のせいか、巨体が一瞬、震えたように見えた。

崎森には、機長とコントロールタワーのやりとりが手に取るように分かった。

「ゴー・アラウンド! ゴー・アラウンド!」

お互いに、それ意外言葉はない。

耳に音が戻り、崎森の脳天をジェットノイズが駆け抜けた。すると理由もなく、黒いジェット機に強い意志を感じた。幼い子供が蟻をいたぶるような、無邪気で残酷な感情。意志ではない、気分だ。

崎森はいつの間にか誘導路脇の草地を走っていた。

黒い機影は、象使いの少年のように巨大なジャンボを引き連れて降りてくると、滑走路の手前でグッと機首を上げた。機体下面全体がエアブレーキになって、すさまじい制動がかかった。ストレーキが水蒸気に霞む。

それはブガチョフというソ連のパイロットが得意としたアクロバット飛行を思わせた。高速飛行から、いきなり失速ぎりぎりまで減速し、水平飛行に移る至難の曲乗りだ。

しかし黒いジェット機がやってのけたのは、もっと困難な荒技だった。のけ反る寸前まで機首を立て、そのまま後ろのギアを接地させたのである。

タイアがけたたましい音をたて、白煙に包まれた。

平たい底面は淡いグレーに、上面は青黒く、どちらも艶のない色に塗られていた。奇妙に厚みを感じさせる塗装だ。

形は、もっと奇妙だった。エアインテイクは主翼の中に隠れ、ジェットノズルもどこにあるのかよく分からない。尾翼は見当たらず、主翼は大きく後ろに張り出し、その付け根にはカナード翼とおぼしきものが今、小さく開かれている。

二枚の垂直尾翼は外側に傾き、そこに赤い星と赤いストライプ、それを信じるなら中国軍機だが、形から判断するならむしろアメリカ製、−−バットマンの乗り物だ。

「乗ってください!」という声が聞こえた。

すぐ後ろに、黄色い軽トラックが迫っていた。その運転席から、中館(なかだち)一等空曹が顔を突き出し、こちらに手を振った。痩せ型、細面なのに臼のような顎をして、一文字の唇はいかにも頑固そうだ。福岡空港に付属したこの自衛隊占有地の警備責任者だった。

助手席に飛び乗って、軽トラが再び走り出すと、黒いジェット機が追い抜き、さらに頭上一杯を埋めつくしてJALの747が行き過ぎた。無謀な割り込みを非難するように轟音を浴びせ、747は南の空へ飛び去った。

後ろから見た黒いジェット機は、三分の一に切り取った雨傘みたいだった。ギザギザになった翼の奥深く、エンジンのズルは完全に隠されていた。アフターバーナーの火が、目に留まらなかったわけだ。

その中央から尻尾のように突き出た円筒が音をたてて割れ、赤いドラグシュートが二つも開いた。どちらも真ん中に金色の「喜喜」という文字が読める。間違いない。中国軍機だ。

いっぱいに風をはらんだドラグシュートが制動をかけた。ギアが紫煙で滑走路を包んだ。

「無理だ」と、崎森は叫んだ。

「あれじゃ、止まれない。オーバーランするぞ」

滑走路の外れには自動車道路が横たわっている。その先は緩衝用の遊閑地で、十年以上前、ガルーダ航空のエアバスがそこまで突っ込んで事故を起こした。幸い死者は出なかったが、エアバスと戦闘機では大きさが違う。ローカライザーやフェンス、進入灯のクロスバーにぶつかれば、それだけで横転、炎上する可能性が高い。

突然、大きな音がして、ドラグシュートが萎んだ。破れたのではない。機体の前方で火花が散った。紫煙が土埃に変わり足許を包んだ。

中館一曹が軽トラのアクセルを踏み抜き、前に出た。

黒いジェット機はフロントギアで滑走路をえぐり、首を草地に振って擱坐していた。

タイアがバーストしたのだ。それでも機を壊さずに止めたのは、見上げた腕前だ。フロントギアは脚以外、ほとんど失われていた。

止まった場所はランウェイ34エンド、幸か不幸か自衛隊のエリアが最も近い。

管制塔のある空港事務所も空港警察署も、三千メートル近い滑走路の反対端、国内線ターミナルと隣接している。消防車は、ブリッジを破壊された国際線のエプロンに張りついていて、まだこちらへ向かう気配もない。警察にも動きはない。

中館一曹が少し手前に軽トラを止め、二人して歩いた。

背後から見ると、それはますますマントをたなびかせる蝙蝠男だ。操縦席はその黒い頭に埋もれ、風防グラスはV型に切り取られたサングラスみたいに平たく細い。しかも、それは真っ白に濁って、中を窺い知ることは出来ない。

戦闘機であることは、間違いなさそうだ。しかし、パイロンには武装を吊っていない。と、いうより、翼下にはパイロンのようなものが見当たらず、のっぺりと平たいのだ。

そのとき、航空自衛隊の破壊機救難消防車が追いかけてきて、青黒い戦闘機の向こう側に停まった。防護服の隊員が飛び降り、消化ノズルを機体へ向け、待機の姿勢をとった。

中館が隊員に手をかざし、ジェット機に叫んだ。

「オープン・ウインドー!」

拳銃に手を添えているのは良いが、むろん弾丸など入っていない。それでも、咄嗟に武器を吊るしてきただけ上等だ。本来なら、銃器の携帯だけでも、上の上の上から指示を得なければならない。

どこにどういう規約があり、誰が最後の許可を出せるのか、統合幕僚監部で統合部隊運用に携わっている崎森にも分からない。誰にも分からないのかもしれない。もしかすると、首相が警護出動を命じない限り、自衛隊基地を自衛官が守るのに武器を持つのもままならないのか。

「オープン・ウィンドー!ホールドアップ・プリーズ!」中館がまた叫んだ。

「多分、中国人だぞ」崎森は言った。

中館は深く頷き、さらに身構えた。

「ニーハオ。ハオチー。アイアム・ニッポン(リーベン)」

「下がって、下がって!」

背後から叫び声が聞こえた。「ほら、あんたら危険だ。下がりなさい!」

スーパーカブのエンジンをバリバリ鳴らし、制服警官が近づいてくるところだった。国際線ターミナルの構内交番に詰めている地域課巡査だろう。

中館一曹が、反射的にガンホルスターの蓋を閉ざした。

中年の巡査はスーパーカブを降りると、両手でメガホンをつくった。

「無駄な抵抗は止めて、出てきなさい。あんたはもう包囲されている」

崎森は、ついあたりを見回した。包囲しているのは、彼と中館と空自の消防隊だけだ。

そのとき、黒いマントの中央の畝が跳ね上がった。戦闘機の風防にしては平たく幅広で、しゃれた便器の蓋みたいな形だった。

消防車の要員が思わずノズルをそちらに向けた。

Gスーツ姿のパイロットは外の様子には目もくれず、ハーネスを外し、立ち上がろうとしていた。飛行ヘルメットはもう被っていなかった。

背は百七十センチほど、崎森より七、八センチ低いが、東洋人にしては脚が長く、全体にすらりとした優男だ。艶やかに黒い髪には、きれいなウエーブがかかり、広い額に二筋、前髪が影を落としている。

「おい。聞こえないのか。すぐに出てきなさい」と、警官が叫ぶ。萎んだ風船みたいに情けない顔をしている。

何を思ったのか、パイロットは見向きもせず、機内にかがんだ。右手が何かを掴んで出てくると、それを空に向けた。自動拳銃だと分かったのは、ぶっ放してからのことだった。

「ああっ」と、警官が喚いた。

「ジュジュジュ、銃刀法違反!」

腰を抜かしながら、拳銃を抜こうとする警官を、中館が後ろから抱き留めた。

その手を振り払い、警官は喚き続けた。

「威力業務妨害。火取法違反。住居侵入、器物損壊、現行犯で逮捕する。おとなしく縄につけ!」

「入管法は?」と、中館が聞いた。

「ここはCIQ(制限地区)だ。まだパスポートコントロールを通っていない」と、崎森が代わりに答えた。

「うるさい、うるさい。あんたら自衛隊だろう。中国軍が来てんだぞ。何とかしなさいよ」

「あんたが、下がれと言ったんじゃないか」

「ごめんください」突然、パイロットが日本語を喋った。

「もしもし。初めまして。オハヨございます」

「まず、銃を置け」崎森は両手を広げて言った。

「分かるか? 私は武器を持っていない。銃を捨てて降りてきなさい」

「おつかれ様です。軍人さんですか?」

「私は日本空軍中佐(ジャパニーズ・エアフォース・ルテナンカーネル)、崎森衛だ」慎重に英語で答え、警官に英語が通じないよう祈った。

相手はいきなり敬礼した。崎森は泡を食って、それに応えた。

「チャイニーズ・ネイヴィー、ミスター・杜天春大尉(キャプテン・トー・ティエンチュン)」

言うなり、拳銃をシートに放り捨てた。英語は、日本語よりずっと不味い。

「耳、聞こえません。(マイイヤー・デッド)ジェットノイズ。ロング、ロングタイム。ベリーマッチ・ノイズ。イヤー・バッドシェイブ」

「耳を確かめるために撃ったのか?」

「誰もこない。日本軍、戦闘機、出迎え来る思ったよ。ぼく、ひとりよ、寂しいよ。迎え来てよ。みんな来てよ。だから呼んだの。ごめんください」

言うと中に引っ込んだ。ボトムハッチが四分割に開いて、驚いたことに梯子(ラダー)が下がった。すぐにそこを伝って地上へ降り立った。

警官を無視して、崎森の前まで真っ直ぐやって来ると、拳銃を手渡した。ベレッタのM92に似ていたが、これは中国軍の九二式手槍だ。韓国製のルイ・ヴィトンほど本物には似ていない。

「ごめんください。軍人さんいて、ベリー・ナイス。アメリカ軍いませんか」

「少しならいるぞ」崎森は国際線ターミナルの脇に顎をしゃくって見せた。

ここから見る米軍の格納庫は、他を圧して広いが、ぺしゃんこで見すぼらしい。窓もドアも見つけられないほど錆に犯されたトタン張りの平屋造りで、まるで半世紀前に捨てられ、野ざらしにされた巨大なオイルサーディンの空き缶だ。

「アメリカ軍に用事か?」と、崎森は尋ねた。

「日本に用事ですよ。おかげさまです。日本兵(リーベンピン)、いつもは嫌いね。今日は、アメリカ軍より良いですね。武士は愛して見たが良い」

「何言ってるんだ。わけ分からん。貴様は銃刀法違反の現行犯だ」手錠をかざし、警官は杜天春の腕を取った。

それを引き寄せ、突き飛ばした。「公安は一番嫌いだ」と、中国語で言った。

あわてて起き上がった警官が拳銃を抜こうとした手に、無理やり九二式を押しつけ、崎森は杜天春を軽トラへ引きずって行った。

中館が大急ぎで運転席に飛び乗った。

「何をするんだ。どこへ連れて行く」警官が追いすがった。

「原付きに二人乗りはできないでしょう」

「滑走路は道交法の適用外だ」

警官は居丈高に言う。見れば、はるか遠くから赤色灯を回しながら空港署のバンとパトカーが近づいてくる。

「素手で持つと指紋が着くぞ」

警官はびっくりして、握りしめていた九二式を取り落とした。

その隙に杜天春を助手席に押し込み、外から閉めたドアをぴしゃりと叩いて、崎森は言った。

「中館一曹。スクランブル!」

自衛隊庁舎に向かって猛然と走り出した軽トラの後を追おうとして、崎森は立ち止まった。

青黒いジェット戦闘機を振り返り、「まさか」と、首を横に振った。

米軍のF117ともB2とも、まったく似ていない。一番似ているのは、やはりバットマンの乗り物か、全身をマントにくるんだバットマンそのものだ。

しかし、いくら何でも、ステルスじゃあるまい。

崎森二等空佐の最初の疑念を、近づく警察のサイレンが追っ払った。

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