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【2】ある晴れた朝、突然に(続き)

[4]

朝九時二十二分、西部航空方面隊司令部防衛部長の田沼一等空佐は、仕事前のコーヒーを飲み終え、コンピュータに灯をともしたばかりだった。

そこにスカイネットを通じて、緊急同報通信が入り、その後、電話で詳細が報告された。

いったい何が起こったのか? 椅子から立ち上がり、彼は窓の向こうの福岡の空を睨んだ。

西空警戒管制団のレーダーは、雲仙岳近くまで不明機(アンノウン)が侵入するまで、それを捉えることが出来なかった。

第八航空団第三〇四飛行隊のF15が二機、築城から飛び立ったが、まったく間に合わなかった。

虎の子のバッジシステムが、易々と破られたのである。もし不明機(アンノウン)に、福岡爆撃の意図があったら、−−

福岡空港は市街地の中にある。新幹線博多駅までは直線で二キロ、天神の繁華街まで地下鉄で十分、指呼の距離だ。

西空司令部のある春日基地もまた、福岡空港の南端、つまり不明機(アンノウン)が擱坐したあたりから南東へ八キロほどの市街地に広がっている。

すぐ隣には高齢者福祉センターと春日市役所が建っているのだが、居丈高なほど大きく、デザインに凝ったそれらの施設と較べたら、この基地は昭和三十年代の食品工場か全寮制の高等学校といったところだ。外国軍が爆撃を仕掛けたら、いったいどれが軍事基地か、判断に迷うかもしれない。

平和そうな町並みを遠くに眺め、田沼一佐は二十一世紀の世の中から切り離されたような、奇妙な感覚に襲われた。

三十数年前、地元の高校から防衛大に入り、航空自衛隊に奉職してここまできたが、営内の景色には大した変化がなかった。

その間、世の中の景色は大きく変化した。今時、コンクリートをペンキで塗った三階建てのビルなど他にない。

ついさっき、その華やかな町並みの上に爆音を聞いた。あれは間違いない、ジェット戦闘機だ。それが、空港の制限表面でアフターバーナーを焚いた。

まったく馬鹿げたことに、航空自衛隊春日基地は、すぐ北側の陸上自衛隊第四師団本部とともに、福岡空港進入路のほぼ真下にある。

電話が鳴って、田沼一佐をデスクに引き戻した。

西空副司令官の吉田空将補からだ。西空指令は、熊本市で行われる植樹祭の昼食会をキャンセルして、基地へ引き返してくる。後三十分で到着すると言う。

「どうなんだ。システムの問題か?」

「まだ何とも。どこのレーダーにも映っていなかったのは、確かなようです」

「ああ、DCからの報告は、受けている。と、いうことは何だ? 電子的な妨害か、それとも、−−」

ステルス機ですか? と聞きかけて、田沼は口に出さなかった。

相手もさすがに口にはしなかった。

二日前、寧波基地を出た東中国海艦隊が北上をつづけ、海上自衛隊は監視を続けていた。去年、西側情報筋を駆けめぐった中国が空母を就航させたという噂は本当だった。出向した翌朝から、空母艦載機をブンブン飛ばし、習熟訓練を続けている。

在日米軍は最新鋭のイージス艦、ガラハトグレーンを筆頭に任務艦隊を海域に派遣して、海自と協力体勢をとっている。

航空自衛隊も監視は怠っていなかった。現に、EP3電子戦データ収集機が空母と空母艦載機の音声交信を傍受していた。

中国海軍空母の艦名は『瑞金』と、一昨日から分かっていた。今朝八時過ぎ、その艦載機が四機、真っ直ぐ日本を目指してきた。

新田原基地のF15がスクランブルして、出迎え(ダイバード)に出た、あれは囮行動かと思ったが、実は亡命機を追っていたのだろう。だから、領空の手前で、簡単に踵を返した。

しかし、五番目の中国軍戦闘機がいたのだ。それは、誰にも気づかれず、日本領土の内懐までやってきた。そして、まんまと福岡空港に下りてしまった。

まるで、−−

これは、娘を凌辱された父親のような気分だ。悔恨や憤怒を通り越している。

音速のジェット機は、一分に十八キロを飛ぶ。領海線を突破したら一分十数秒で領土の上空に到達する。それでは、すべてが手遅れだ。それではるか前方に防空識別圏を設定し、そこを越えた身元不明機に対しては超音速の要撃機でスクランブルをかけ、追い払うようにしている。

冷戦期、航空自衛隊がスクランブルするのは主に北の空だった。多いときは年間八百回を越えていた。一九八九年に冷戦が終わり、一時は数十回まで減ったものが、また徐々に増えている。

こと中国機に対するスクランブルは、今世紀に入るまでゼロだった。それが十、二十と倍々で増えていき、昨年は三百回を超えた。今、スクランブル出動の舞台は西の空だ。

中国の偵察機は日々、東シナ海のガス田周辺を飛行し、自衛隊の航空機や基地が出すレーダーなど、電子情報を収集している。これを分析すれば、戦闘機が日本を侵攻する際、日本の防空網を無力化できる。

そんな緊張状態が、この西の空で続いているにも関わらず、つい数年前には、中国を「脅威だ」と発言した基地司令官が更迭された。

脅威と言ったのであって、仮想敵だと言ったのではない。

それをメディアにリークしたのは、防衛庁の内局だ。

アンノウンが福岡空港に下りたという報告は、その内局にももう届いているだろう。

そのとき、防衛部員が人、入ってきて、挨拶も無しに言った。

「アンノウンが福岡空港を爆撃したとの報告があります」

「どこから、聞いたんだ」

「陸自第四師団から」

その司令部は、街区を隔ててすぐ北にある。彼らの情報部隊は、県警の内部にパイプを造ってるから、そこから聞こえてきたのだろう。

「板付は何と言っているんだ」

「変なジェット戦闘機が降りてきたと。下りたとき、事故があったようだと言ってます。中国軍機のマーキングが見えるそうです」

福岡空港の片隅に存在する航空自衛隊春日基地板付地区には、西空司令部直轄のT4連絡機と、入間に司令部がある航空救難団のヘリコプター空輸隊が置かれている。

いったい、その誰がこの緊急時に対処できるだろう。

「うん」と、唸ったとき、また電話が成った。

今度は内ポケットの携帯電話、それも公用で持たされているものではなく、私物の携帯だ。

液晶を見ると、『崎森』とあった。

昨日、東京の統幕からやってきた崎森二佐だ。この古い後輩が今朝、築城基地に向かうと言うので、司令部支援飛行隊のT4を足に仕立ててやったのを、田沼は急に思い出した。

「まだ、板付か?!」

「空港が閉鎖されてしまったんですよ」弁解するように、崎森が言った。

「爆撃されたなんて言っている奴もいるぞ」

「ソニックブームです。国際線ターミナルが一部壊れました。故意に浴びせたんです。景気づけだと言っている」

「言っている?話したのか」

相手は見たことのないジェット戦闘機に乗ってきたと、崎森は言った。それは34エンド付近で擱坐している。パイロットの言うことを信じるなら、海軍機だ。要求はまだ分からない。しかし、逃亡者であるのは確かなようだ。

「日本に用があってきたと言っています」

「用って何の用だ?トイレでも借りようってか?」

「コーヒーをよこせと言っています。スターバックスのキャラメルマキアートです。知ってますか」

「知らない。しかし、飲ませてやれ」

「警備隊の若いのが、もう買いに行きました。うちの自販機にあった烏龍茶は、飲もうとしないんです」

「バッジが取り逃がしたんだ。見つけたときは、すでに領空だった。それも内陸だ。国土の上にいたんだ」田沼一佐は相手に気づかれないよう、そっと溜め息をついた。それでも、声は悲痛だった。その声を振り絞るようにして尋ねた。

「まさかステルスってことはないだろうな」

「ええ。目の前でアフターバーナーを焚きました。中国が、超音速のステルスを実用化したって言うなら、話は別ですが」

そうだ。その音は田沼も聞いていた。

アメリカのF117にはアフターバーナーがない。ステルス戦闘機が音速で飛ぶことは、アメリカでさえ叶わぬことなのだ。

「法務官と中国語が出来る取調官を、こちらへ送ってくれませんか」と、崎森が言った。

田沼一佐は一瞬、何を言われたか分からなかった。すぐ、立ちくらみがするほど驚いて聞き返した。

「おい。そこにいるのか?! パイロットは、そこにいるのか」

「はい。板付の庁舎です。警察の本隊はまだ来ていません」

「でかした!」と、田沼防衛部長は叫んでいた。

気づくと、いつの間に来ていたのだろう、若い幕僚スタッフが数人、目の前で歓声を上げた。


[5]

滑走路を望む三階建ての板付庁舎は、最上階がヘリコプタ空輸隊、二階がT4を運用する西空司令部支援航空隊、それぞれのオペレーションルームに充てられている。

二階のブリーフィング用カウンターの隅で、電話を切ると、崎森は今の西空司令官、石山新二空将がベレンコ事件の際、函館空港のCAPに従事していたことを思い出した。

結局、誰も彼もがベレンコ事件を屈辱として記憶しているのだ。

もう三十年以上たつのに、それは陸海空にかかわらず自衛官の間にトラウマのようにして伝承されている。

ソ連空軍のパイロット、ベレンコ中尉が戦闘機を駆って函館空港へ飛来し、亡命を求めた。冷戦の最中である。乗ってきたミグ25は最重要軍事機密、日米共に喉から手が出るほど欲しい情報の宝石箱だった。

当時、自衛隊の高級将校には、まだ旧軍出身者が大勢いた。そのためもあって、空港と機体の防衛のため、空港近くの北部方面第十一師団の部隊を出動させた。

実質的な戦闘計画が立案され、実戦対処命令が出された。

「攻めてきた敵は、一人として生きて返すな」と、陸幕長が指示を下し、ついに実弾が公布された。

にもかかわらず、上からの正当性は一切与えられなかった。

政治はそれを認めず、防衛庁内局の官僚たちに切り崩された統幕会議は、武器使用の判断を、現場指揮官に委ねた。つまり、現場にすべての責任が丸投げされたのだ。

総理大臣による防衛出動は結局発令されず、この行動は独断専行であり超法規的なものであることがはっきりしたが、それでも師団長が全責任をひとり背負うとして、臨戦態勢は続いた。

海上自衛隊の艦艇が津軽海峡の西口に防衛ラインを敷き、航空自衛隊のF4ファントムが二十四時間体勢で空中警戒監視(CAP)を続けた。

ソ連軍は動かなかった。

何ごともないまま二日後、ベレンコは東京に身柄を移され、自衛隊はやっと尋問を許された。その翌日、日本国は亡命パイロットを、まるで厄介払いでもするようにアメリカに送り出していた。

さらに十一日後、ミグ25は米軍機でやっと百里基地に移送され、自衛隊は解体調査を許された。

その間、自衛隊は警察から、まるで下請業者のような扱いを受けた。

現地部隊の行動は不問に付されたが、事実上の防衛出動の記録は闇に葬られ、同時に彼らの覚悟や誇りも無かったことになってしまった。

こうして、深い傷が残った。

その傷は、きっとまだ塞がっていないのだ。

ただ、破られた防空システムは大きく改善された。三十余年して、レーダーの能力もコンピュータの処理速度も比較にならないほど高くなった。F15、F2ともに搭載されるレーダーはルックダウン、ルックシュート能力に優れ、真下の目標を見失うこともない。その上、AWACSを初めとする警戒管制機も備わっている。

その防空網が、またも破られた。

あの黒いジェット機が、もしステルスであったなら、−−


崎森が頭の隅で、そのことをまた疑ったとき、階下から呼ぶ声が聞こえた。

急いで一階へ降りていくと、空輸班事務室から、体半分廊下につき出して、中館一曹が電話に出てくれないかと言う。

「空港長なんです。すみません。自分では対応しきれないので」

「四〇一は、大丈夫か?」

警備隊との間で、杜天春をそう呼ぼうと取り決めてあった。四〇一は、とりあえず一階の応接室に入れ、玄関と滑走路へ出る出入り口を警備隊員で固め、外に面した窓は、ぴったり着けて停めた救難トラックで塞いだ。

「はい。室内にも二人つけてあります。コーヒーが届いてからは、いたって友好的です」

応接室のドアも、拳銃を吊るした隊員が直立不動で守っている。むろん、拳銃に弾丸は入っていない。

崎森は事務室に入って、ドアを閉めた。

「空港長の堺です」と、相手は名乗り、そこの司令官かと尋ねて、崎森を少々驚かせた。

「私は、統合幕僚監部の人間です」

「支援飛行隊の隊長さんとは面識があるんですが。あの方は、いらっしゃらないんですか」

「所要で浜松へ出ています。ヘリコプタ輸送隊の隊長はいると思いますが、彼らはここに格納庫を置いているだけで、西空隷下にあるわけではありません」

「ややこしいんですな。これは困った。まるで、お役所だ」と冷たく言った。空港長こそ、国交省の役人のはずだ。

「それで? 失礼ですが、あなたは−−」

「私は、先刻の事件のとき、たまたま滑走路に居合わせまして−−」

「じゃあ、責任者はどなたなんですか」

「ここは春日基地の一部です。責任者といえば、春日基地司令でしょう」

基地指令は西空警戒管制団の司令官でもある。この空域のレーダー監視の総責任者だ。バッジシステムを破られ、さぞ大変な思いをしていることだろう。しかも、春日基地司令は、そこに司令部を置く西空の司令官とも、また違うのだ。

「江口空将補なら存じあげていますよ」と、堺は苛立ちを隠さずに言った。

「しかし、江口さんはそこにはいないでしょう。私は、今現在、おたくの真ん前で起こっていることについて、責任のある方にお尋ねしたいんです。空港が止まってるんですよ。止めた犯人は、あなたがたが確保してる。こちらがお尋ねする前に、連絡をいただくのが筋じゃありませんか」堺空港長は、途中から声を裏返してしゃべり続けた。

「崎森さんは、ご存じないかもしれないが、明後日から福岡でアジアカップが始まるんです。サッカーのアジアカップですよ。その上、あなた、百道のホークスタウンでは、何だか知らないけれど『亜細亜アキハバラ電脳フェスティバル』なんてイベントをやってる。バカにしちゃいけません。これの集客予想が二日で三十万人ですよ。国際線はチャーター便で立て込んでいるし、国内線もフルブック状態なんです。おまけに、あんなバカでかい音を出すものだから、近所から苦情が殺到している。ここは市街地の真ん中だから、騒音に関しては微妙なんです。ご近所と、明文化してない申し合わせもいろいろあるんですよ。地域助成だけじゃない。祭りだ、老人会の餅つきだって、さんざ協力して、やっと良い関係を保っているんです。しかも今度、東平尾の第二門前に建ったマンションのオーナーは共産党員なんです。いいですか? 何が起こったか、すぐ連絡をいただけないと困るんですよ。この空港で起こるの一切の責任は私にあるんです。たとえどこかの国から爆撃を受けたとしても、市民の苦情はこちらへ来るんです。フライトが遅れるのも、騒音も、テロも空爆も全部、苦情はこちらへ来るんです」

「さっきの衝撃はソニックブームによるものです」と、崎森はきっぱり言った。

「ターミナルレーダーが、あのジェット機の行動を捉えていたでしょう」

「そうだろうという報告は受けています。進入してきたJARの295便は、あいつに鼻先を掠められ、四秒後に今度は後ろから下を潜って追い抜かれたそうです。そんなことが可能なんですかね」

「時速六百ノットで半径七百五十フィートのスプリットSを決めれば、計算上は可能です。それより、なぜJAR機に着陸を許したんですか」

「今、調査中です」声がしゅんとした。

「しかし、タワーから見えなかったのは確かです。国際線エプロンで何が起こったか、すぐに把握できなかった。滑走路のこちら側では、音も決して大きくなかったんです」

空港長は吐息まじりに言い終えた。

JARの機長から泣きが入っていたのかもしれない。コストカットと合理化が至上命題で、何かといえば減俸で締め上げる。こと燃料節約のためなら,どんなことでもする。これで四十一か月、連続不祥事記録を更新している航空会社のことだ、何があっても不思議ではない。

「あの飛行機は、そちらの格納庫へ片づけていただけるんですね」と、堺が尋ねた。

「警察に聞いてください。そこからでも見えるでしょう。我々も近寄れないんです。威力業務妨害の証拠物件だとかで」

「航空法違反じゃないんですか?」

「それも警察に聞いてください」崎森は言った。

「あのジェット機は何者です? 中国の亡命機ですか」

「中国軍の戦闘機です。何しに来たのか、まだ分かっていません。しかし、害意はなかったようです」

「害意でなくて何です? 何であんなことをしたんですか」堺が怒鳴った。

「景気づけだと言っています。どうせやるなら、派手にやりたかったと」

空港長が一秒、押し黙った。それからムッとした声で言った。「崎森さん。あなた、戦闘機乗り(ウィングマン)ですね」

「いや−−」と、答えに詰まった。

「分かりますよ。私は、長いこと管制官をしてましたから」

相手が先に電話を切った。


事務室を出て『四〇一』がいる部屋へ向かうと、制服の内ポケットで携帯電話が鳴りだした。ベルの音で私物の方だと分かった。

崎森は仕方なく廊下を引き返し、搭乗待合室の脇を通って、エプロンへ出た。そこにも警備隊員が二人、立っていた。

仕方なく、さらに誘導路の方へ歩き、庁舎に背を向けて通話ボタンを押した。

「はい。東京第一銀行の仙田でございます」自分でかけておいて、「はい」と言う。不愉快な言いぐさだ。「崎森さまですね」

「そうだ」と答えると、溜め息が出た。

「今日は四日の金曜ですんで−−」銀行屋は窺うように言った。猫なで声というが、これは猫を逆撫でするような声だ。

「月曜が引き落としとなります。今日中に口座にご用意くださいませ」

「わかった」と言いながら、彼はぼんやり滑走路を眺めた。

黒いジェット戦闘機は、何台もの警察車両に取り囲まれていた。張りめぐらせたタイガーロープの内側では、制服姿の鑑識課員が地べたに這いつくばって、容疑者の遺留品やら犯罪の物証を探している。機体にとりついた連中は、タイヤの泥をほじり出し、機体の指紋を採取している。まるで砂糖にたかった蟻の群れだ。

拳銃からはじき出された薬莢やスリップ痕、オイル痕などは白線で囲まれ、ナンバーをふった立て札が置いてある。

航空自衛隊の隊員が、それを遠巻きにして、なすすべもなく見守っている。

せめて外からでもと、デジカメやビデオを持たせたのだが、警察はレンズを向けることさえ許さないのだ。

これでもまだ、県警本部の捜査員は到着していない。空港署の捜査課と地域課と生防と組対が、威力業務妨害、銃砲刀剣類所持等取締法、往来危険罪、入管法違反など、それぞれの捜査権を主張して、ツバ競りあっているようだ。

「もしもし、聞いてらっしゃいます?」銀行屋の逆撫で声が、彼を呼び戻した。

「お願いしますね。ここ半年、遅れがちですので」

「払わなかったことはないだろう」

「毎月五日のお約束にお引き落とし出来ないことが多ございますので−−」

三時までには、必ず資金を充当してくれと言い捨てて、仙田は電話を切った。

銀行だろうが信販会社だろうが、いったん金を貸したらサラ金と何ひとつ変わらない。

町もテレビも、最近はサラ金の宣伝であふれている。ことにこの空港はそうだ。ビルの上にあるだけではなく、鉄塔に支えられた巨大な看板が、駐車場の前に立ち並んでいる。国内線で降りるたび、それが増え、近ごろでは刑務所の壁のようだ。

堺空港長に見すかされた通り、三年前まで、崎森は築城の第六飛行隊でF2支援戦闘機に乗っていた。

振り出しは、日本初の国産支援戦闘機、三菱F1だった。支援戦闘機は、自衛隊用語だ。国際基準なら攻撃機(アタッカー)である。

戦闘機(ファイター)は、防空司令部(DC)が弾き出した最短のルートを飛んで、要撃に向かう。しかし、攻撃機の飛行ルートはパイロットの任意だ。よく勘違いされているように、ドッグファイトをしないわけではないし、スクランブルに出ないわけでもない。

崎森はそれが気に入っていた。F1が旧式化して、F15の部隊へ行くよう再三勧められたが、彼は支援戦闘機に固執した。陸自や海自とは違い、空自のパイロットには上官の命令に対しても、一部の我を通せる雰囲気がある。

そのうち、F2が正式化され、彼は最初のF2飛行隊の編隊長に抜擢された。

そのころ彼は、七つ年下の女と結婚した。戦闘機乗りの妻というのに飽きたのか、一年もすると、彼女は菓子造りの教室を始めると言い出し、自分でさっさと銀行に金を借り、教室兼用の小さな洋菓子店を開いた。

抵当のマンションは彼女が結婚前に頭金を払って買ったものだから文句はなかった。お嬢さんの殿様商売で借金が膨れ、気づけば八百万円になっていた。

悪くしたもので、同じ町内に有名なパティシエが店を出し、彼女の店は息の根を止められた。

マンションを売ったが、ローンが残っていたので、いくらにもならなかった。

彼は自衛隊を辞めて民間航空会社に勤め、その退職金で完済する決意をした。そう決めるまでの感情的ないざこざで、結局妻とは離婚した。

転職の寸前、不整脈がでた。おまけに痛風を患っていた。痛風というのが、どうにもサマにならなかった。自己管理が出来ていない証拠のような病だ。ウィングマンとしてなってない。

当然、民間航空への転職は反故になり、戦闘機からも降りなければならなかった。

幸か不幸か、地上勤務で引いてくれる上官がいた。当時は空幕情報本部、今、西空で防空部長をしている田沼一佐だ。

妻は何も取らずに出ていったが、数百万の借金は彼の元に残された。月々の返済が八万円、少なくない額だった。

田沼が西空へ栄転すると同時に、彼は統幕の総務部へ異動になった。

その一年前、統幕会議が統合幕僚監部に改められ、統合幕僚長による三軍の統合運用が始まっていた。しかし、陸海空の相互連絡は不徹底で、統合任務部隊編成の即応性にも問題が多かった。指揮、命令の流れにも混乱が生じた。

そこで統幕は、方面ごとに調整官を派遣して、問題点を洗い出し、統合運用の習熟を図ることにした。

調整官の仕事は、企業で言うオリエンテーリングのようなものだ。大手広告代理店がこしらえた洒落たパンフレットと、プレゼン用のアニメが入ったノーパソとプロジェクターを持って、陸海空の各司令部を渡り歩き、統合運用のための組織作りを推進する。

日課をこなすことで一杯の各司令部からは、フーテンの寅か何かのように煙たがられている。お付き合い程度に人員を出して、だらだらと会議に付き合うだけの司令部もある。

二等空佐というのも、舐められては仕事にならないという統幕の親心で、下駄を履かせた任官だ。

崎森は、誘導路で振り返り、板付地区を見渡した。ハッカ色に塗られた庁舎を真ん中に、左はヘリコプタ格納庫と消防車のガレージ、右はT4の格納庫、庁舎の通用口に歩哨が立っている他は、いたってのんびりしている。

警護出動が発令されない限り、基地を武装した部隊で守ることも出来ない。三十余年前、函館空港とは違い、ここには自衛隊の基地がある。亡命パイロットの身柄は、そこに宅干されている。しかし、もし特殊部隊の急襲や航空部隊の空爆にさらされたら、相も変わらず為す術がないのだ。

冷戦は二十年近く前に終わった。中国も、来年にはサミット正式加盟国になると言われている。これしきのことで、よもや軍事侵攻はしないだろうが。


崎森が庁舎に戻ると、応接室のドアが開き、中館が出てきた。

「四〇一が、電話を貸せと言っています。どうしますか」と、真顔で尋ねる。

「どこへかけるんだ。今度はピザーラだなんて言わないだろうな」

「友達と話したいそうです」

差し出した紙片に、090で始まる十一桁の番号が走り書きしてあった。

「かけてみますか?」

「それは拙速だろう。誰の電話か確かめるのが先決だ。ここへ発信すること自体が、何かの情報伝達になっている場合も考えられる。謀略でないと断定は出来ない」

「この番号を、空幕の調査課で調べてもらうのは、どうでしょう」

「さあ、あそこは、−−」崎森は口ごもった。

「じゃあ、陸自の方面調査隊は−−」

「いや、彼らは、−−」

「統幕の情報本部は、今も警察出向の連中に牛耳られているんですか」

「そうとばかりは言えないが、電話番号から所有者をたどるのは、お門違いじゃないか」

「じゃ、我々で電話会社に頼みますか」

「何て頼むんだ? 警察でも裁判所のペーパーが無ければ教えてもらえないだろう」

「自分の知人に元調別にいて、今はサラ金の信用調査専門にしている男がいるんですが、−−」

確かに、それが一番有望だ。しかしそんな人物に、気安く頼むわけにはいかない。

崎森は、乱暴に私物の携帯電話を出し、いきなり紙片の電話番号を押した。

呼び出し音が四度聞こえ、どこかに繋がった。次の瞬間、また別の呼び出し音が始まり、すぐ声が飛び出してきた。

「やっぱり、お電話くれたのね。ウ・レ・シ・ー」甘ったるい、メイド服を着たアニメのヒロインみたいな声が囁いた。

「寂しいの?分かってるって。ユカリンだって寂しいもん。じゃ、いい? まず1とシャープを押してね。いやん、押すのはそこゃないって」

崎森はあわてて電話を切った。

中館を押し退け、応接室のドアを開けた。

『四〇一』こと杜天春は、巨きな紙コップでコーヒーを美味そうにすすっていた。

向かいのソファに座っていた警備隊員が、崎森に席を譲った。

「うまいか?」と、聞いても通じない。

「美味しいですか?」

「おかげさまです。スタバ、とても美味しい」泡だらけの口でにっこり笑った。

「中国でもスタバと言うのか?」

「中国? 日本でしょう。日本語、スタバでしょう。ありがとう」

「君は、何をしにきた」

「何をしに? 用あります。友達に電話、お願いね。おかげさまです」

「この番号は、エロサイトに転送されている。君の友達がやっているのか」

「友達、やってるよ。社長さんの娘ね。お茶とお花と男? 雄琴? いや、お琴ね。やってます」

「番号を変えてしまったんでしょうか」と、中館が呟いた。

「いったい何をしにきたんだ。亡命じゃないのか」

「ごめんください。亡霊、ちがうよ。−−−−−−−誰かフランス語はしゃべれないか?」

「フランス語がしゃべれるのか」

「もちろんだ。パリに行ったこともあるぞ。俺の車はシトロウエンのC4だ」と、四〇一がいきなり流暢なフランス語で言う。しかし、居合わせた誰も理解できない。

「ごめんください」呆れたように苦笑して、また日本語に戻った。

「日本、ランウエイ、とても悪い。ああ」そこから不意にフランス語で、

「ちくしょう。滑走路が悪いんだ。あれは、ひどすぎる。俺の操縦でしくじるわけがない。擱坐したのは滑走路のせいだ」しまいには高ぶって怒鳴ると、膝を拳で叩いた。

「どうしたんが。腹でも減ったのか」崎森がなだめた。

「おかげさまです。お腹はすきました」

「ピザでも取るか?」

「日本のごはん。あるでしょう、ラーメン。ナガハマヤ、ラーメンありますか?」

中館が身じろぎした。いかつい顔が怒りで強張っていた。

「待ってくれ」と言い残して、崎森は廊下へ出た。

統幕から持たされている公用の携帯電話を出し、田沼一佐に通訳を催促しようとすると、手の中でそれが鳴りだした。

「お疲れさま」と、統幕総務部の調整室長が言った。

「西空司令部から具申があった。春日基地司令官の補佐として、今回の亡命事案の保全任務にあたってほしいということだ。こっちに異存はないんだが、君はどうだ」

「他に選択肢はないような気がします」

「それで?」と、室長は声をひそめた。

「本当に中国軍機なのか。J10かね?」

「J10などではありません。まったく見たことのない機体です」

「絶対に警察には渡すなよ。頼むぞ」

電話を切ると、ポケットの中で私物の携帯が鳴り出したのだ。

「はい。センダですが」と、声がした。

「分かった、分かった。必ず今日中に処理します。こっちは今、火急を要する事態なんだ」

言うだけ言って、彼は通話を切った。振り向くと、真後ろに中館が立っていた。

「ラーメン、どうしましょう?」と、彼は眦を決して尋ねた。

「二十四時間営業ですが、出前はしていません。調達部隊を編成しますか」


[6]

春日の陸上自衛隊第四師団司令部の敷地内にある、第十九連隊本部では、連隊長が受話器を握ってしばし呆然としていた。

センダはセンダでも、彼は千駄一佐だった。昨日、統合運用習熟会議で知り合った調整官が、まだ福岡にいるはずだというので、電話をかけたのだ。中森が、請われて名刺の裏に書いた携帯だ。間違えて、私物の方の番号を書いたのだが、二人ともそんなことは知るわけもない。

連隊に福岡空港の異変を伝えたのは、空港ビル会社に雇われた保安要員だった。たまたま即応自衛官であったその男が、慌てて所属する第十九連隊の二科に急を知らせた。第十九連隊はコア連隊である。普段は本部要員と若干の隊員が勤務しているだけで、いざというとき、民間に勤めている即応予備自衛官を召集する。いわば、パートタイムの普通科連隊だ。五年ほど前、削減された予算と定数割れを補うため、半ば苦し紛れに考案された。

その即応自衛官は電話で叫んだ。

「攻撃です。本当です。空港が国籍不明の爆撃機に攻撃されてます」

報告を受けて、すぐに崎森のことを思い出した。航空自衛隊の出身で、しかもまだ福岡にいるはずだった。

情報担当の後藤二科長他、詰めかけた幕僚の手前、彼はしばらく受話器を耳に、話を聞くふりを続けた。

電話を一方的に切られたのは面白くないないが、よほどの事情があったのではないかと、千駄連隊長は思い直した。とにかく、尋常な様子ではなかった。他に、調整官があんな無礼な態度に出る理由がない。

テレビをつけたが、まだ何も言っていない。そのうち、速報のテロップが流れた。

第十九連隊は即応戦力ではないが、他の部隊を展開させるには数時間を要する。ここから空港なら自動車で十分とかからない。コア連隊とは言え、防衛の重点が、ソ連解体によって西に移った今、彼らは中国、もしくは北朝鮮のゲリラコマンドによる空港、港湾施設急襲に対する訓練を重ねてきた。都市ゲリラ対策も練ってきた。

師団幕僚への報告は済んでいた。しかし、レスポンスはまだない。

幕僚は偵察を具申するが、師団司令部と同居している第十九連隊が、独断で偵察に出るのもどうか。

首相官邸の危機管理センターに、対策室が立ち上がるのを待つべきだろう。

「しかし」と、二科長が言った。

「ベレンコ事件のときだって、地元連隊がすぐ偵察を出しています」

千駄連隊長は、それでやっと口を開いた。

「よし、これから十五分後に俺は師団司令部へ行く。その前に、貴下は偵察へ出ろ。ただし同行は二名、私服で行くこと」

「武装せずにですね」

冗談と分かっていたが、連隊長は苦い顔で無視すると、こう応えた。

「余計なものは一切、身につけていくな。身分証のようなものもだ」

後藤二科長は二科の伴野一尉と三科の菱花三尉を偵察の同行者に選んだ。伴野は連絡部員(リエゾン)として、県警警備課に知り合いが多い、菱花は中国語に堪能だった。

彼らが空港へ出ていくのを待って、千駄連隊長は同じ基地内にある師団司令部へ向かった。

師団幕僚長はすでに事件を知っていた。NHKがニュースを流していたのだ。

そこへ情報幕僚である第二部長が入ってきた。コンピュータに入っている航空機識別要覧に当たったが、中国、北朝鮮共に該当機が存在しない。念のため韓国も当たったが見あたらないと彼は言った。その機影というのは、NHKの映像をビデオに撮ったたものだ。

千駄連隊長が偵察を出しことを報告すると、二人は尋ねた。

「私服でだろうね?」

師団長は西部方面総監に報告を指示すると、すぐに部長会議を招集した。

会議では第二部長を責任者にして司令部情報所の開設が決まり、第二部が二十四時間体制で事態に当たることとなった。

「ただし、名称は特別演習準備本部とでもしておこう」と、師団長は言った。


第四師団からの報告がある前に、熊本県健軍にある西部方面総監部は空港の異変を知っていた。

そのころになるとテレビ各局、ことにワイドショーをやっている局は力を入れて、特番をオンエアしていたのだ。

西方総監は陸幕長へ報告、部長会議を招集した。そこで、総監部第二部長がいくつかのシミュレーションを展開した。

非常に可能性は少ないが、都市ゲリラに欺瞞した工作員による破壊活動と中国民間機を乗っ取ったハイジャッカーに欺瞞したゲリラコマンドによる空港急襲、この二つの可能性は否定できないと、彼は言った。普段から訓練に使われているマニュアル通りの回答だった。

西方総監、井田垣陸将は中国、朝鮮情報の専門家を集めて総監部情報所を設置し、現場至近の第四師団に情報幹部を送り込んで、亡命機と亡命者の情報収集を急がせることにした。同時に、沿岸監視部隊と情報専門部隊のフル稼働体制を命じ、それぞれの部隊を隷下にする総監部第二部は陸幕と連絡を取り合い、中国の対応を探るよう命じた。

「独断での情報所開設が後で問題になるとまずいから、法律にあたってくれ。はっきりするまで、名称は特別演習計画所とでもしておこう」

そう言い残すと、井田垣陸将は熊本城築城四百年祭の打合せのために県庁へ向かった。

今年始めに就任した新知事は、自衛隊になかなか好意的で、城の石垣でのレンジャー部隊による岩上りイベントと、パレードへの戦車部隊の参加を要請していた。


[7]

その年の六月四日は金曜日だったので、事件が起こったとき、霞が関の首相官邸では定例閣議が開かれていた。

閣議では、北朝鮮の将軍様が一昨日、突然北京に姿を現したことが話題になった。

「それで、何か続報はないの?」と、富田林首相が尋ねた。

「広州だか上海だか、視察に向かったとニュースでは言ってますが、当てにはなりませんね。何しろテレビのことですから」相外(おうと)外相が、目を落としたまま応えた。

「君には聞いてませんよ」と、首相。

「総理!」官房長官の丘山みどりが声を上げた。

まだ四十を過ぎたばかり、財務官僚時代は美貌とユニフォーム代わりのアルマーニスーツで有名だった。

「警察庁からの報告では、一昨日夕刻、北京市内の解放軍病院にいたことが確認されているそうです。英仏両国の情報筋も、それを裏付けています」

「はあ。凄いもんだな、警察って」と、外相が感心した。

「病気なの?」首相は丘山官房長官に尋ねた。

「はい、それも重篤な。−−そうとしか考えられないということです。前回の訪中から、まだ二年半しかたっていません。それに、もし首脳会談であるなら、順番からして今回は中国が平壌を訪れるはずです」

「前回のときも入院やら経済危機やら、いろいろ噂されたが、結局、ただの経済視察だったじゃないか」

「いえ」と、丘山みどりが自慢の瞳をぱちくりさせて、首相に答えようとすると、外相が割り込んだ。

「後で、中国課のレポートをお届けします」

「あ、結構。あそこのレポートは、人民日報の記事と同じだから」

閣僚の半分が右から左へ聞き流し、残る半分が顔を強張らせたが、官房長官と国交相は声を立てて笑った。

「まあ、そう言わず」と、外相は言った。「彼らも懸命にやってるんですから」

「機密費の支出に関しては、ことに熱心だよなあ」と、国交相の寒川厚義が口をひん曲げて混ぜ返した。

他の閣僚は、ますます黙りこくった。外交機密費のことは、外務省の高官の娘が天皇家の一員と結婚したときから長くタブーとなっていたのだ。

「アメリカからは、何か伝わってないのかな」と、首相は誰にともなく尋ねた。

「何も」と、官房長官が応えた。

「英仏の情報筋が入院加療のために訪中したと確認しているのに、です。アメリカは入院の事実さえアドミットしてないんですよ」

未確認としていません」

言いながら、彼女はサイドをカールさせたボブヘアをかき上げた。

覗けた耳に何人かの閣僚がそっと目をやり、見とれると同時にこう思った。一歩でも霞が関から出たとたん、この女がちっとも綺麗に思えなくなるのは何故だろう。

「変でしょう。どう思われます、総理?」

「イランの核施設を空爆してからこっち、アメリカは中国に遠慮しているんじゃないの。遠慮と言っちゃ、おかしいけどさ」

お追従笑いが聞こえたので、首相は眼鏡の奥から、細く鋭い目で誰が笑ったのか確かめた。やはり相外だ。

「ごもっとも。いやいや、本当に」

「安保理で、あれだけやり合っておきながら、中国の対米批判は想定外に控えめでしたからね」と、丘山官房長官が言った。

「中国が建てたピスタチオ工場まで吹っ飛ばしちゃったというのに」

「あれはキャビアだ」と、国土交通相の寒川が言った。

「ピスタチオ工場に見せかけた、キャビアの瓶詰め工場だ。去年、世界で売られたキャビアとシャンパンの四十五パーセントを中国人が消費したのを知っているかね」

「猫は百パーセント彼らが食ってますよ」と、失言癖のある農水相が応じた。

「あの空爆は、きわめて限定的なものだったからな。ほとんど巡航ミサイルだったし、バンカーバスターは四発か。さいわいイラクにも波及せず、ホルムズ海峡も大過なかった」

首相は言って、胸を張った。与党の反対を押し切って、アラビア海に自衛艦隊を出したのは、富田林の最初の大仕事だった。

「何より中国に対しては、大きな教訓になったはずだ。北朝鮮にとっては明日は我が身。核保有国をアメリカは攻撃できないという思い込みが外れたんだからね。だから、中国も口先とは裏腹に、どこかアメリカに遠慮がちだろう」

「町内会じゃあるまいし。国家間に遠慮なんかあるわけないでしょうが」寒川国交相が、もともとひん曲がった唇をさらにねじ曲げ、吐き捨てた。

「アメリカが黙ってるなら、病気じゃないと考えるべきじゃないんですかね。中朝が何らかの謀議をするため、首脳会談をセットした、病院の中でさ。そう考えるのが普通じゃないの?」

寒川国交相は、富田林首相の政敵と言われてきた。先の党首選挙では、党を二分して戦いあった。党内融和のため、閣内に取り込むなら財務相か外相と言われたのだが、意外にも寒川は国交省を受諾した。

彼は二世議員で、父親は典型的な地方ボス、叔父は今も県議をしている。

そして、寒川の地元は福岡だった。

「だいたい中国人ってえのは、遠慮って言葉から一番遠いんだよ。タイ焼きを二つに分けようとするだろう。遠慮のない奴は、まあ、頭の方を欲しがるわね。中国人は違うよ。全部よこせと言うんだよ」

「尻尾ぐらいは残してくれるでしょう」と、総務相が言った。閣僚に笑いが広がった。

「遠慮深くても図々しくても、どっちにしろ十五億人も寄り集まれば、それだけで無遠慮ですわ」と環境相が言って、笑い声がピタリと止んだ。

「中国といえば」と、防衛庁長官が口を開いた。

「福岡で、スクランブル発進がありました。中国の飛行機が、またワガママをしたようですな」

ついさっき、事務方から回されてきたメモには、「正体不明機が領空侵犯。市上空で消失」とだけあった。県議上がりで、もともと軍事音痴の長官は、防空識別圏と領空の区別がつかなかった。消失も、追っ払った結果「消え失せた」という意味だと思った。

「それでは、今朝はこれくらいで」と、首相が腰を上げた。

「笑い事じゃないんだよ」腰を上げながら、寒川は防衛庁長官に言った。

「うちの地元じゃ、あんた、どんどん増えちゃって。不法滞在を入れたら、二万人ぐらいいる。それが、まあ、悪いことするんだ!」

「大変ですなあ。しかしそれは、警察の職掌ですから」

「これで、将軍様の死にでもしたら、別のがどっと湧いて出るぞ。海から、どっと」

何が湧いて出るか、長官には分からなかった。言葉の途中で、寒川国交省はさっさと歩きだしていた。


閣僚が官邸を出て行ってから十五分後、官邸に「国籍不明機強行着陸」の報がもたらされた。

ここでも最初の情報源は、やはりテレビだった。NHKではなく民放の緊急ライヴだったのは、首相私設秘書官の祐上坊が、毎朝、各局ワイドショーのザッピングを日課にしていたからである。

直後に警察庁から報告が上がった。次に来たのが、福岡空港を管下に置く国交省、防衛庁は四番目だった。

官邸に飛び込んできた防衛局長を、丘山みどり官房長官は、皮肉っぽい笑顔で迎えた。

「総理はすぐ党本部からお戻りになります。コントロールルーム(CMCR)に官邸対策室を立ち上げる予定です」

少々険のある目で、さかんに恐縮する防衛局長を見やり、ピンクの口紅を塗った唇の端を吊りあげて囁いた。

「お気になさらず。外務省なんか、私が電話するまで気づいてもいなかったんですから」

それからすぐ、首相が白バイに先導されて引き返してきた。

首相官邸は五階建てだが、崖っぷちに建っているため、玄関は三階にある。地上部分は全体に特殊ガラスを多用し、内装には隅々まで自然木が使われている。天気のよい日は、外壁の中にその内装が丸ごと覗け、まるでガラスの箱に閉じ込めた巨大な材木屋みたいだ。

センターは玄関ホールの三層下、地下一階のほぼ三分の一を占めている。官邸自慢のパテオに注ぐ自然光もここまでは届かない。

危機管理コントロールルーム(CMCR)は、その奥まった一角にあった。かつての対策会議室を改装した大部屋だ。二十四時間態勢の情報集約室と情報や映像データを共有し、各所とテレビ会議などもできるよう、最新設備が持ち込まれた。

馬蹄形のカウンターテーブルには人数分の液晶モニターが設置され、奥まった壁はマルチスクリーンに埋めつくされていた。これは、五十インチのリアプロジェクション・モニターを四十ユニット、シームレスに張り合わせたもので、分割表示も重ね合わせも自在に出来た。

危機管理監が、総理の官邸対策室設要請を受けて、そのドアを開いた。

真っ先に足を踏み入れ、富田林首相は入り口で大きくつまずいた。ドアの敷居が異様に高く、段差になっている。

「気をつけてください」と、危機管理室のオペレータが言った。

「後付けでフリーアクセスにしたもんだから、床が嵩上げしてあるんです」

「ああ。家と同じだな」後ろから来た寒川国交相が笑った。

「後から床暖房にしたら、いつも客がつまずくんだ。ま、家の者はそんなことないが」

首相は、助け起こした官房長官の手を振り払い、足を引きずって中央の椅子に座った。

国交相、警察庁官房長、防衛局長などが、それぞれ定められた席に着き、最後に、そこだけ独立した調整デスクにオペレータが腰掛けた。

部屋の隅には、各種インターフェースや通信機器などの空き箱が積み置かれたまま、中には封を開けていないものもある。それがなかったら、壁の張り紙が見えたはずだ。そこには下手な字で、こう書いてあった。

『機材に触れる前に、必ず石鹸で手を洗いましょう』

危機管理監の生出町(おいでまち)が命じ、オペレータがすべてのモニターに灯をともした。むろん手など洗っていない。

壁に、在京キー局すべてのテレビ映像が映し出された。NHKは「みんなのうた」、NHK教育は「感じる算数3、4、5」をやっていた。テレビ東京では、長崎訛りの男が全身全霊を傾けて電動リンゴ剥き機を売り込んでいた。

その三局が消され、スクリーンは四分割に変わった。

ヘリコプタから望遠レンズが捉えた、奇妙な黒い戦闘機に、どよめきが起こった。

なぜだ! −−

生出町危機管理監は愕然とした。驚きはすぐに憤りに変わった。なぜ、マスコミから隠さないのか。東京の警察だったら、決してあり得ないことだ。

生出町は、つい一昨年退官するまで四年間、警視総監の職にあった。

「現地に繋いでくれ」

彼は背後の調整デスクに囁いた。

オペレータはキーボードを叩きながら聞き返した。

「県庁ですか?」

「何を言っている。警察だ」

生出町の目の前でプッシュボタンのついていない電話が鳴りだした。

「はい。福岡県警本部ですが」と、女の声が聞こえた。

「もしもし、どちらさま」

生出町はびっくりして、反射的に受話器を戻した。

「現地の本部だ。空港署の捜本だ」声が大きくなった。

「空港署の代表番号しか分かりませんが、それでいいですか」

「データリンクしているんだろう。映像でも音声でも良い、すぐ出してくれ」

「いえ」若いオペレータはきょとんとして危機管理監を見つめた。

「それができるのは首都圏四都県の警察と大阪府警、北海道警だけです」

「どうなってるんだ? だったら警察庁と繋げ。あそこと福岡県警はリンクしているだろう」

「その回線とは違うんです。それぞれクローズしてるから、ここと、あそこは繋がらないんです」

「統幕はどうなの。統幕と現地は繋がっているでしょう」

首相に直接尋ねられて、オペレータは目を下げた。ふくれっ面をモニターの灯が下から照らしあげた。

「知りません。それ、ぼくの知る範囲じゃないから」

「統幕とは、まだデータリンクしていません」と、防衛局長の轡田が言った。

「テレビ会議の回線は来ているんですが、向こうにまだ端末が入っていないんです。今期も予算がつかなかったもので」

言って、局長は窺うように丘山官房長官を見た。

「じゃ、この装置を使って、どことも話はできないの?」丘山みどりは、逆に聞き返した。

「電話なら出来ますよ」と、オペレータは応えた。「電話があるところなら、どことでも」

「総理!」と、国交相が言った。

「空港の早期再開が一番の課題でしょう。とっととこの黒いのをどこかへ片づけて、パイロットを東京に運んで、空港を開けないと、えらいことになる。明後日から、アジアカップが始まるんですよ。福岡では十二試合です。関連イベントも十幾つか予定されてるんだ。ご承知でしょうな?」

「中国に強面の君も、地元には弱いみたいだね」

「当たり前じゃねえの。議員なら、上から下までみんな同じだ。それに、これは偶発的な亡命事件じゃないのかい?」

「君はどう思う? 生出町君」と、首相。

「国防に関する案件とは言えないでしょうなあ」話を振られた危機管理監は、防衛局長に目を向け、半ば念押しするように言った。

轡田は、その話に黙って頷いた。元をただせば財務官僚だった。彼を可愛がっていた大物が次官レースに破れ、その煽りを食って財務相の人事から押し出されて出向したのだ。

今でこそ、上級職試験合格者からも一次志望されるようになった防衛庁だが、それでも防衛局長だけは財務相出身者の定席になっている。そして、電波傍受の要である情報本部電波部長のポストは警察庁が手放そうとしない。

「最新鋭機ならまだしもですが、中国軍機は、軍事機密としては評価が高くありません」と、その轡田は東大ワンゲル部の先輩である生出町にエールを送った。

「ロシア製のものは、今や機密でも何でもない。マーケットで売ってますから。冷戦の最中ではあるまいし、飛行機一機のために中国が事を荒立てるとは思えませんね」

「軍事機密でないなら、早急に中国に返してやろうじゃないか」と、首相は言った。

「むしろ、向こうのメンツを最大限重んじて事態を処理すれば、関係改善の一助となるだろう。災い転じて福となすってやつだな」

「亡命者はどうします?」と、丘山みどりが尋ねた。

「その男、どこへ亡命したがってるんだね」と、首相。

「さあ、それが、−−」危機管理監が小首をかしげ、轡田局長を凝っと見据えた。

「身柄は今、航空自衛隊が確保しておるようです。警察には、本件被疑者について何の情報も上がってこないのが現状です」

「エエッ!」と、防衛局長が驚嘆の声をもらした。

「そんな話は、こちらには、まだ」

「板付からは何の連絡もないんですか」

遠慮のない口調で尋ねたのは、警察庁警備局の警備企画課長、楚々木警視長だった。

「空幕に繋いでくれ」と、轡田はオペレータに頼んだ。

「代表番号で良いですか」

「空幕長の電話番号を知らないのか」

「ぼくは知りません。でも、データはあると思います」オペレータはマウスをしきりに動かした。

轡田の目の前で電話が鳴った。受話器を取り上げ、彼はいきなり空幕長に尋ねた。

「今朝の亡命機のことですが」

「ああ、401ですね。亡命かどうか、まだ明らかではないようです。本人は、ただ用があってきたと言ってる」

「何ですかそれは? いくら隣だからって、アポも無しに戦闘機で飛んでくる者はいないでしょう」

「戦闘機かどうかも、分かっていない」

「そんなことは後回しです。それに乗ってきたパイロットは、板付が押さえているんですか? いったい何の権利で、−−」

「パイロットが、わが方に投降してきたのです。領空侵犯機の操縦者です。しかし、われわれにはご承知のように捕虜に関する取り決めがない。だから客として応対しています」

受話器を握る轡田の手がぶるぶる震えだし、関節が白くなった。

「何だって、私に黙っていたんですか」

「黙っていたわけではありません。情報が上がってすぐ、統幕から運用部長と事務長が官邸に向かったはずです。局長に連絡する方法が他になかったので」

「他にって、空幕長、−−」

「官邸対策室の直通番号を、われわれは把握してないんですよ。内局からうかがっていないんです。まさか、官邸の代表番号へかけるわけにいかないでしょう。まず、繋いでくれるわけがない」

「しかし、−−」

「もう着いておると思います。お手間かけますが、お探しになっていただけますか。それから−−」と、空幕長は言葉を止めた。

「これからは専用電話にしてください。あなたがおかけになっているのは、一般電話ですよ」

轡田局長は電話を切り、しばらくそのままの姿勢で憮然と固まっていた。

「亡命じゃなかったら、何なんだろうな」と、首相が取りなすような口調で尋ねた。

「亡命に決まってますよ」と、官房長官が言った。

危機管理監と警備企画課長は、閉鎖された空港上空を飛び回り、好き勝手に「事件現場」を撮影し続けるテレビカメラに文句を言い合っていた。

彼らにせっつかれ、オペレータは現地警察と回線を繋ごうと苦労していた。

「しかし日本に亡命したいなんて言い出さないだろうなあ、その男」と、首相は言った。

「今時ディズニーランドもティファニーも中国にあるからな。そんな酔狂なことはいわないだろう。アメリカに行きたがるさ」国交省は、口を「ん」の字に曲げて言った。

「あ、そうそう」首相が声をあげた。

「このことアメリカに伝えておかないと」と、言ってテーブルを見回した。

「相外君はどこだね。相外外相は」

「まだ、お見えではありません」と、官房長官は言った。

「失礼しますッ」轡田防衛局長が立ち上がった。顔色は青白く、思い詰めた表情で首相に一礼すると、官邸対策室を飛び出して行った。

「どこへ行ったのかしら」

「携帯電話でもしに行ったんじゃないんですか。ここは繋がらないから」と、生出町が苦笑した。

「外務省は何をやっているんだ」


外務省アジア大洋州局中国課では、テレビニュースで事件を知った課長が、部員を集めて、情報収集のための特別チームを編成した。

それが済むと、官邸から戻っていた相外大臣の元に、ブリーフィングに向かった。

主旨は、いかにこの変事を利用して、中国との関係改善に役立てるかというものだった。

富田林首相はその施政方針の第一に、中関係の改善を掲げていた。一度は好転した日中関係だったが、去年魚釣島に関西のパチンコ王が上陸、一夜にして身の丈十三メートルの自由の女神像をたててしまってから、非難の応酬、いまではすっかり冷え込んでいた。

何とかしたいという財界の願いを、新首相は一身に背負い込んでいたのだ。

「そのためには」と、尾綿(おわた)中国課長は言った。

「この件では、中国へ絶対に抗議しないことです。亡命パイロットは、アメリカ大使館関係者より先に、中国担当者に面接の機会を与えること」

「駄目だよ駄目。すぐは駄目」と、アジア大洋州局長が切って捨てた。

「さんざ焦らしてからだ。いいかね。相手が条件を出してからだ。ともかく、夕方ぐらいまでは突っぱねるんだ」

「それまでには、事態が動いてしまいますよ」と、中国課長が言った。

「それに局長、名波中国大使が、早いところ何とかしろと矢の催促で。今夜、北京で財界訪中団のパーティーがあって、そこに中国副首相が来るそうなんです。手土産がなければ、パーティーに出られないと、−−」

「名波さんか。困ったな、あの人にも。万一、反日デモにでも発展したらパーティーどころじゃなかろうに」

二人がため息をついた。

「ちょっと、いいかな」

相外外相が、二人に尋ねた。

「それで、アメリカはどうしたいんだろう。誰か聞いているか?」

「大臣、駄目です」局長が声をひそめた。

「それを言い出したら、北米局の思う壺だ」